現代社会における経営で重要なのはデータを活用する経営です。
売上・利益を伸ばすにも、生産性を高めるにも、顧客との関係性を深めるにも、意思決定の判断材料となるのはデータです。
しかし、データ活用だけでは、その事業は存続しません。もう1つ人間学とも呼べるものが必要になるのではないでしょうか。
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論理・データ偏重の限界
日本の中小企業は、まだまだデータを活用しきれていません。
「中小企業のデータ経営」と名付けた本ブログを運営しているのは、中小企業のデータ活用を推進したい想いからです。
現在、データ活用の典型例がマーケティングです。「Webマーケティング」が生まれ、より広い概念である「デジタルマーケティング」が生まれました。データに基づくマーケティングを実施している企業と、そうでない企業の差を見ると、その威力は一目瞭然です。
日本は戦後から、データや論理(ロジック)を必死に学んできました。技術を身に着け、先進国に追いつきました。ただ、その後の凋落は、決して偶然ではないと考えています。もう1つの人間学(リベラルアーツや道徳と言っても良いでしょう)を忘れてしまったからです。
同じようなことを、多くの人たちが既に感じています。
データ活用の大家であるGoogleが、マインドフルネスをベースにした研修を行っているのが、分かりやすい事例でしょう。データを活用するだけで人間を理解しないことの限界を、既に感じ取っているのです。
禅寺に行くと、実に多くの外国人がいます。あるいは、私の周りでも人間学・リベラルアーツを学ぶ大人が増えてきています。かつての日本人が持っていた「こころ」を取り戻そうとしているのです。
渋沢栄一が、その重要性を説いていた
そして日本実業界の父、渋沢栄一が、その重要性を以前から説いていました。そう、『論語と算盤』です。「道徳(論語)と経営(算盤)は合一すべきである」と、後進の企業家を育成するために、経営哲学を語った談話録です。
渋沢が幼い幕末の頃、経済は停滞していました。
いくら人格を磨いたところで、経済がまわらなければ、どうしようもないことを、渋沢は感じ取っていたのでしょう。
そして明治維新。論語を学んでいた人格者たちが、西洋から科学技術や資本主義を学んでいきます。論語と算盤のバランスが取れた時代だったのです。
しかし、そんな時代は長くは続きません。明治も後期になると科学技術や資本主義に偏重した社会になっていきます。論語が軽んじられた社会になってしまったのです。
そんな社会に警鐘を鳴らすように、大正5年に『論語と算盤』が書かれました。私たちは、今こそこの重要性を噛みしめるときではないか?と思うのです。
ちなみに算盤ばかりに偏って失敗した事例は枚挙に暇がありません。その代表例が原爆です。道徳を学ばなかった愚かな指導者が、科学技術を誤って使ってしまった。誰が悪いとかではなく、全人類がその反省をすべきだと思います。
余談ですが今日、広島で平和記念資料館に行ってきましたが、日本人だけでなく、多くの外国人が訪れていました。
両方を扱うことで生まれる強さ
このように人間学(論語)だけでも論理・データ(算盤)だけでもダメ。しかし、このように相反する存在を統合すると強くなることを、私たち日本人は昔から知っています。
日本神話にもそのような要素がありますし、陰陽の概念や太極図を、私たちは知っています。ドラゴンボールで神様(善)とピッコロ(悪)が融合するのも、ナルトが九尾を統合してパワーアップするのも、日本の歴史文化に、そのような概念があるからでしょう。
光があれば影が生まれる。
昼があるから夜がある。
乾季があり雨季がある。
男がいて女がいる。
どちらが良い悪いではなく、どちらもある。
それらを統合して、より高い次元での全体感を持つ。
私たちのDNAが二重螺旋構造をしているのも、偶然ではないはずです。
人間学を忘れてしまった私たちには、それらを取り戻し、統合することが求められているように思います。他のどの民族よりも、日本人が、その点に長けていると思うのです。
- データやロジックだけの経営には限界がやってきている
- もう一方の人間学・道徳を身につける必要がある
- その2つを統合できるのは、文化的に日本人が長けている
このブログのタイトルも「データ経営」だけではなく「人間学」をつけたいところですが、今の私には恥ずかしくて、まだまだ掲げることができません。。
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